心を殺す春
杉 謙太郎
花人
今年の1月に私はパリにいました。「花会」という私が主催するセレモニーのためです。日本には茶会というものがあります。それに通ずることを花で行う会のことです。
昨年のパリでは、雪に見舞われ大変でした。しかし、今年は暖かく、同じ時期ですがこんなにも違うものかと考えた滞在となりました。
たくさんのパリの人が見に来てくださり、多くのディスカッションを行ないました。
私が興味があることはいつも同じです。「あなたは花を見て何を考えるのか」です。そして、その花とは、薄暗い室内に生けられた一輪の花であり、私達が散歩する道端に咲いているあの花のことです。
私は花を生ける会場その周辺でのみ集められた野の花を使います。花屋さんで買ったことはありません。
野に咲く花は、世の中の荒波の例えのように、雨に濡れ、風に吹かれ、耐えて生きている。私たちはその花を手折り室内へ運び、それを生けます。実際には室内には風は吹いていません。しかし、いかにも風に吹かれている自らの姿のように、花を生けてみるのです。 目に見えて実際に風を受けている姿というよりも、雨に濡れ、風に吹かれ、それに耐える姿を花そのもの内面に見るということなのです。その花姿に私たち人間の感慨が寄せられるのです。
私たちの人生とは、時の間に過ぎ行き、雨の日と晴れの日を繰り返し、世間の風に吹かれ「情」を持つように育まれてきたはずです。又、流れのうたかた(泡)のように消えては生まれ、そしてまた消えることをただ見送っているだけです。しかしこのうたかたには一瞬の真実があるのです。
夢とうたかたの間に浮遊する、「軽いゆらぎ」の中に存在するものが、一瞬の真実「花」であると考えるのです。
私たちは、花会で花と対面するとき、凝縮された一瞬の真実をそのたゆみなき流れの中に「ありあり」と見出すのです。
私はちょうど5年前から東京の写真をカメラに収め、いまは無き廃墟の病院で野に咲く花を生け、3年間通いつめました。コロナショックにより、その写真集にのこされた東京はまるで別の星のようです。写真集の中には今を予想したかのように「来ることのなかった東京」があります。
人は記憶する、そして蓄積された記憶もいずれは忘却していく。忘れなければ生きていくことはできないのでしょう。
「忘草 東京」この本は、逝きたる東京の遺影です。
私たちが新しい世界へどのような希望をたずさえて向かうのか、どのような境遇にも咲く野の花の姿に何を思うか。そのような問いを、声なき花の面影から向けられているかのようです。
竹林にて